蓼科高原映画祭とは

 小津安二郎監督作品をはじめ、小津監督が描き続けてきた「家族」をテーマに、話題の邦画・洋画・アニメ作品の上映、またゲストのみなさんによる舞台トークを繰り広げます。

 安二郎 監督は晩年、蓼科に作品づくりの場を移し、美しい自然、人情、地酒をこよなく愛し、名作を生み出していきました。これを記念し、1998年(平成10年)蓼科高原(茅野市)で「小津安二郎記念・蓼科高原映画祭」がスタートしました。

 以来、当映画祭へは茅野をはじめ周辺地域、他県、また海外からも、多くの小津ファン・映画ファンに訪れていただいております。

 2002年(平成14年)には、ここから21世紀の映画が生まれることを願い、短編映画コンクールも始まり、『映画』を観る・作るを通して、文化的・人的な交流を益々図り、やがては映画・映像文化の発展につながることを期待しながら、私たちはこの映画祭を永く伝えることにより、自分達を育んでくれた『まちの元気』に貢献したいと思っています。


【小津安二郎 監督】

 日本映画史上、小津、黒沢、溝口の三大巨匠と賞され、世界の映画人からますます高い評価を得ている映画監督「小津安二郎」。日本人の一般的な庶民生活の中で、夫婦・親と子・家族などに生ずる心のズレを淡々と描きながら、いつの間にか時代を超え国を超えて普遍性を持った映画として人々に感動や愉しさを提しつづけた稀有な監督です。

 昭和29年夏、『東京物語』をつくり終えた小津監督は、コンビを組むシナリオライターの野田高梧氏の蓼科の山荘「雲呼荘」を初めて訪れました。八ヶ岳の山麓に拡がる高原の自然と霊気にふれて、小津監督はたちまち気に入ってしまい「水がうまい。洒がうまい。空気がうまい。」と、以後昭和38年に没するまで野田高梧氏と、この蓼科高原にあぐらをかいて数々の名作を送り出したのです。お二人は心からこの地を愛し高原の生活を愉しみました。そして、何よりも仕事に打ち込みました。

 蓼科高原は小津映画のこころのふるさとであり、ここ蓼科から晩年の多くの名作が生まれたのです。

 このようなお二人のゆかりの地、蓼科高原・茅野市で秋のひととき「小津映画・小津のこころ」に触れながら、小津監督、野田高梧氏のように、ゆったりとした時間を過ごしてみてください。


【小津安二郎 プロフィール】

1903年12月12日、東京深川(江東区)に生まれる。
小学生の時に父の故郷・三重県の松阪に移る。伊勢市の宇治山田中学校卒業後、三重県飯南郡飯高町の尋常小学校で1年間代用教員を務めた後、帰京。

1923年撮影助手として松竹キネマ蒲田撮影所に入社。

1927年時代劇『懺悔の刃』で監督デビュー。
戦後は脚本家野田高梧と組み『晩春』『麦秋』『東京物語』といった名作を次々に発表。『東京暮色』以降は蓼科高原(長野県茅野市)に盟友、野田と共にこもって脚本を執筆し晩年の名作を生み出す。

1963年12月12日、60歳の誕生日に逝去。

1957年の『東京暮色』から1958年『彼岸花』、1959年『お早よう』、1959年『浮草』、1960年『秋日和』、1961年『小早川家の秋』、1962年『秋刀魚の味』までの晩年全ての作品が蓼科で執筆された。

2012年、世界最古の映画協会の一つである英国映画協会(BFI)発行のSight&Sound誌が1952年から10年に1度発表している、358人の映画監督が選ぶ「映画監督が選ぶベスト映画」に「東京物語」が1位に、846人の映画関係者が選ぶ「批評家が選ぶベスト映画」で3位に選ばれた。